2012年11月15日木曜日

スマホのいい点は・・・

スマホデビューしてから、3ヶ月が経ちました。

これまでは、携帯はもっていましたが、親指打ちが面倒で、緊急以外はもっぱらPCメールで通していましたし、電話も携帯は高いので、もっぱら家デンを使っていました。

そんな反ヘビーユーザーの私が、なぜスマホに変えたのか。きっかけは、娘がスマホに変えたことです。家族割りが利用できるということで、「割引」につられて、私もついにスマホデビューとなったわけです。

機種はdocomoのギャラクシーノート。いままでのところで、よかった点を挙げてみます。

 5.3インチ大画面なので、文字が見やすいです。左手の手のひらに乗せて、右手で操作しますが、外出中でも不便に感じたことはありません。

手書き入力が完璧に近いぐらいの精度で認識してくれますので、これでメールを書くのが楽しくなりました。専用のペンがついていてこれで書くのですが、人差し指で書いてもぜんぜん大丈夫です。

電子手帳の機能が使えます。これまでも携帯で スケジュール管理をしようと思ったこともありますが、結局は見づらくて断念。PCでgoogleのカレンダーと紙媒体のメモ帳を使っていました。スマホのカレンダー機能は秀逸です。それに手書き入力ができるんで、紙の手帳感覚でストレスなく使えます。

情報収集・管理ツールとして使えます。専用アプリを使って、気になる新聞記事をシャメで撮って保存。拡大すると、小さい文字もはっきり読めます。HPも同様、専用アプリに取り込んで保存分類。あとで検索もできます。

以上が、ギャラクシーノートの優れた点です。 

次に、 気になる料金です。

今、スマホ節約術を研究しているところです。家では無線ラン接続でスマホを使っているので、無料で接続できています。問題は外出時なのですが、これも、docomoのWIFIを賢く利用すれば、かなり安く上げることができるます。

それに、 外出時は必要なメールの送受信と緊急電話の受けだけに限れば、ほとんど料金はかからないのではないでしょうか。

うーん、それなら、スマホどころか、携帯を持つ必要があるのか、というツッコミがきそうですね。 

確かに、メールと通話機能に限ればそうかもしれません。しかし、スマホの持つパソコンとしての機能は、私にとっては大変有用となりつつあります。

これから、電子ブックにも、語学学習にも、スマホでチャレンジしてみようと思います。

2012年10月9日火曜日

90代のイメージを一変させた笹本恒子さん

どっしりとしたカメラを胸の辺りにかまえ、こちらを見てニッコリ笑うとてもチャーミングな女性。

それが女性報道写真家の笹本恒子さんです。

この9月で98歳を迎えられました。

ご著書でもテレビでも拝見するお姿は、大ぶりのアクセサリーがよくお似合いになる、とてもお洒落な女性です。

若いころから当時としては珍しい女性カメラマンとして、報道の現場を取材されてきた笹本さんは、100歳近い高齢者のイメージを一新しました。

これまで100歳といえば、歯もなく、腰は曲がり、杖をついてやっと歩いているというイメージか、もしくは認知症で寝たきりという、あまりポジティブなイメージではありませんでした。

それを、世間がびっくりするようなさっそうとした姿で登場したのですから、メディアがほおっておくわけはありません

彼女の素晴らしいところは、あのお歳でお洒落を決して忘れないということでしょう。

ご自身、しばらく洋裁のお仕事もしていらしたということですから、センスはプロ並みです。

普通はどの世代でも敬遠してしまいそうなはっきりした原色のウエアが、笹本さんの手にかかると、みごとに98歳にフィットして、元気ではつらつとしたイメージを作り出します。

眼から鱗です。

最近、町を歩いていると、笹本さんに影響されたのか、きれいな色調のウエアをお召しのシニア女性をよく見かけます。

私も、赤やピンクのスカーフを胸元にあしらって、町へ出かけようかな、なんて思っています。

もう、つけないだろうと引き出しの奥のほうにしまって忘れていた大ぶりのイヤリングを、そっと取り出して、鏡の前で耳に当ててみたりもしていますが、さあ、これはどんな時につけましょうかと、思案しております。

人と違うことをするのは、なかなか、勇気がいるものですが、98歳の笹本さんだってつけているんだから、35歳以上も若い私がつけておかしい訳はない、なんて理屈が通用するのが、うれしいですね。

笹本さん、ありがとう。

これからももっともっと活躍なさって、私たちシニアの星になってくださいね。

2012年9月3日月曜日

2012年夏 大震災1年半後の東北へ(最終回)

三日目、8月26日は、宿泊した牡鹿半島から南三陸町へ向かいました。
半島にあるいくつもの入り江には、 残されている家はほとんどなく、わずかに鉄筋の建物だけが、外壁だけ残して無残な姿をさらしていまいした。
写真の建物は2階建てでしたが、土台からなぎ倒されたように横倒しになったままに放置されていました。


ある入り江には、昭和8年3月3日昭和三陸地震のときの津波記念碑がありました。ここまで津波が来た、これより下には住まうな、といった内容のことが書いてあるのが、どうにか読めました。テレビで、そういう石碑があることは知っていましたが、実際にこの眼で見ることがでるとは思ってもいませんでした。

 
そのすぐ近くに小学校の建物がありました。中は、津波で流されて、なにも残っていませんでした。子供たちの安否が心配になり、ネットで調べましたら、当時、住民の助言により高台に避難して、児童・職員は全員無事だったということでした。 ほっとしました。
 瓦礫集積場に、一輪のひまわりが、鮮やかな黄色い花を咲かせていました。まるで、元気を出して、と言っているようです。



 多くの犠牲者を出した石巻市釜谷地区の大川小学校にも行きました。
校舎の前には石碑が建てられていて、ひまわりをはじめたくさんの花々が供えられていました。私たちも、ここで黙祷。
たくさんの人が訪れていて、石碑の前で頭をたれていました。大型バスで訪れるグループもありました。

 ニュースで聞いていたように、すぐ後ろは、登ろうと思えば低学年でも登れたかもしれないような小高い山林になっていました。
大人たちが安全に生き延びる道を必死で考えた結果とは言え、ここを登ってさえいたらと思うと残念でたまりませんでした。

 私たちは、そのまま北上して、南三陸町の防災対策庁舎に向かいました。ここでは、町役場の職員が最後まで残り、住民避難のために奔走されていました。津波は屋上まで達し、非常階段と鉄塔につかまった僅かな職員を残し、多くの職員が津波にさらわれてしまいました。
防災無線で住民に避難を呼び掛け続けた遠藤未希さんもその一人です。


 この日も、多くの人が訪れ、むき出しの鉄骨だけになった庁舎に向かって、黙祷をささげていました。「防災対策庁舎」という文字と、それを裏切るような無残な鉄骨との対比が、あまりにも悲しすぎて、私は言葉もなく立ちすくんでいました。

 南三陸町は、甚大な被害の中、それでも力強い復興の槌音を響かせています。
南三陸町の地元商店街と町が共同で、再び幸せを取り戻すための企画として、「福興市」を開催しています。
私たちは、ちょうどその開催日にうかがうことができました。遠方からも多くの方々が来ていて、これからは、こういう形での支援が息長く続くことが大切なんだと思い知らされました。
私たちも、店主の津波体験のお話を聞きながら、海鮮丼やうに丼に舌鼓を打ち、名産のわかめなどを購入しました。



ここでは、「語り部プロジェクト」として、津波の被災者が自らの体験を語り継ぐ運動を行っています。震災前に観光協会で地域ガイドをしていた方々が中心となって、活動しています。
幸いにも私たちは今回、語り部の方々のお話を聞く機会に恵まれ、津波の生々しい体験を直に聞くことができました。皆さん、涙をこらえながら語ってくださいましたが、語ることで、だんだんと気持ちの整理もついてきているとおっしゃっていました。


今回、手探りで被災地をめぐってきましたが、やはり、現地に行かなくてはできなような貴重な体験をさせてもらいました。
直に見る、聞く、体験することで、被災地の現実の一端ではありますが、自分の中で強く印象付けられた気がします。

被災直後は多くの若い方々が、被災地の過酷な状況の中に飛び込み、 ボランティア活動をしてきました。

今は被災地も落ち着きを取り戻し、交通機関や宿泊施設も普段どおり利用できるようになりました。 被災地の支援は、これから5年、10年と長いスパンで考えていく必要があります。

これからが、私たちシニアの出番かもしれないと、そんなことを思いながら、帰路に着きました。

(終)



2012年9月2日日曜日

2012年夏 大震災1年半後の東北へ(4)


 二日目、8月25日は、石巻へ。

駅前の市街地は道路も建物も、きれいに復旧していて、津波があったこが 嘘のように整備されていました。
しかし、「津波浸水深ここまで」と書かれた標識が立てられていて、腰のあたりまで津波が来たことがわかります。
3.11の津波の被害を決して忘れたてはならないと、この標識は語っているようです。


近くには、「ふれあい商店街」という仮設の商店街ができていて、津波被害にあった商店の皆さんが頑張っていました。



 海に向かって車を走らせていくと、まだ壊れたままの家屋もありました。



沿岸部が見渡せるというので、私たちは日和山という小高い丘に上がりました。見渡す限り青々とした夏草に覆われている荒地に、私たちは言葉もなく立ちすくんでしまいました。


北上川河口近くの中洲には、無残にも津波で片足をもぎ取られた「自由の女神像」が立っています。この像は地元の企業が建てたものらしいですが、なんとも不思議な感じがしました。

近くには、石巻出身の漫画化、石ノ森章太郎さんの記念館があり、私たちが訪れたときには、復旧作業中でした。どれだけ貴重な作品が流されてしまったことでしょう。

海岸近くの石巻市立病院です。 いまだヘドロの強烈なにおいがあり、薬局も水に漬かったままです。

中州には津波で流されクシャクシャになった自動車の残骸 が積み上げられていました。車内に取り残されたまま流された方もたくさんいらしたことを思い、そっと手を合わせました。



 (続く)




2012年8月31日金曜日

2012年夏 大震災1年半後の東北へ(3)

8月24日 東北の旅、一日目の午後は、宮城県亘理町の「ふるさと復興商店街」に伺いました。


 



 仮設住宅内は、昼下がりとあって、人っ子一人歩いていませんでした。商店にも人影はなく、営業しているのか、ちょっと心配になりましたが、コロッケ家さんを見つけて、中に入らせてもらいました。


ちょうどお昼をいただいたばかりだったので、コロッケひとつだけ、買って食べましたが、揚げたてで、とてもおいしかったです。

ここでも、コロッケ家の奥さんに、いろいろとお話を伺いました。

お店は海岸近くにあり、すべて津波にさらわれてしまったこと。仮設で商店街をつくるから、やってみないかと言われて、お店を始めたこと。
店が仮設の人たちの集会場みたいになって、 住民の皆様に喜ばれたこと。芸能人やお相撲さんも来てくれて、うれしかったことなど、気さくに話してくださいました。

夕方になると、仕事から帰った人たちで、店も活気を取り戻すそうです。
お話を伺っているときも、学校帰りの高校生らしいお客さんがあったりして、普段の暮らしが少しずつ取り戻されている様子が伺えました。

それでも、この仮設住宅で暮らす方々が、住む家や大切な人をなくし、悲しみにじっと耐えていることを思うと、厳粛な気持ちにさせられました。

2012年8月29日水曜日

2012年夏 大震災1年半後の東北へ(2)

8月24日 第1日目。

海岸沿いの壊滅的な状態にショックを受けましたが、気を取り直して、また走り始めました。

お昼は、国道沿いの地元の小さな食堂に入りました。

そこで、食堂の女将さんや地元の方に、いろいろと震災当時のお話を伺うことができました。

(食堂の女将さんのお話)

この食堂まで津波は押し寄せてきたが、幸い、浸水くらいですんだ。自分たちは地震が来てすぐに逃げたが、姉夫婦が津波に持っていかれてしまった。

(男性のお客さんのお話)

自分の家は海岸から600メートルのところにあった。
新築して10年しかたっていなかったが、根こそぎ、津波に持っていかれた。
自分たちはすぐに逃げて助かったが、一切合財、なくしてしまった。
しかし、自分が保険屋をやっていることもあって、地震・津波保険に入っていたので、二重ローンにならずに済んだ。
震災後は地震・津波保険に入る人が増えた。自分は元自衛官なので、震災後はボランティアで駆け回った。
津波のときは、ちょうど地区のお年寄りの集まりの世話をやっていたので、自宅で7,8人の年寄りがお茶していた。
地震の直後、自分は皆をワゴン車に乗せて、逃げた。あとで、お年寄りからは、命の恩人だと言われた。


他のお客さんたちも、みな地元の人らしく、気軽に、いろいろと津波のことを話してくださいました。一人ひとりに、語るべきドラマがあるということが、ほんのちょっとお話しただけでもわかりました。

もっとゆっくり、お話を伺えれば、もっと、いろいろと聞かせていただけたと思うのですが、ここであまり時間を使うわけにも行かず、残念でした。

皆さんから、この地域に仮設住宅の商店街があることを伺ったので、午後は、そこへ行ってみることにしました。

出かける前には、旅程の大体の目安はつけてきたのですが、とは言っても、なんのつてもなく、どこを訪れたらいいのかわからないまま、出発しました。

こうやって、現地の方とお話をすると、いろろとおしえてくださるので、とても助かりました。




余談ですが、カーナビって、本当に便利ですね。今回、初めて自分で運転しながら使ってみましたが、極度の方向音痴の私でも、カーナビさえあれば、日本中、どこへでも行けそうな気がします。

「そこを右です。」なんてカーナビに言われて、そのたびに従順に「はい」と返事をしていた私でした。

ベテランドライバーの同伴者は、カーナビの指示を無視して、勘で走っていましたが、私にはとてもそんな大それたことはできません。


(続く)





2012年8月28日火曜日

2012年夏 大震災1年半後の東北へ(1)

8月24日から26日まで、仙台を中心とした東北の被災地に行ってきました。

被災地の現実をこの眼で見ておきたいと思っていましたが、被災された方々にご迷惑じゃないか、不謹慎じゃないかという思いもあり、 ずっと躊躇していました。

しかし、現地の方が、実際の被害の様子を直に見て感じ取ってくださいとおっしゃっているのを聞いて、その声に背中を押されるようにして、行ってきました。

同世代の社会人学生の女性と二人で、仙台からレンタカー借りて周りましたが、同行者がいなければひとりでもと思っていたので、彼女が一緒に来てくれて、本当に心強かったです。

大津波から1年半たった、被災地の様子をご報告します。

1日目は昼前に仙台駅に到着。レンタカーを借りて、海岸沿いを相馬市に向けて南下しました。


 国道の海岸側は、雑草の茂った野原にところどころ住宅の土台が残っているだけで、見渡す限り、建物らしい姿は見られません。


建物が津波に持っていかれ、土台だけが残っている家がほとんどです。

瓦礫がきれいに取り払われ,、まるで新築の家が建つのを待っているようです。この土台の上で、泣いたり笑ったり、普通の暮らしが、当たり前のように営まれていたことを思うと、胸が詰まります。


被災したまま、取り壊されずに無残な姿をさらしている建物も残っていました。

防砂の松林も、被災前は向こうが見えないほどみっしり群生しいたのが、ほとんど津波にさらわれて、今はまばらにしか残っていません。

(続く)

2012年8月13日月曜日

人類の叡智

ロンドンオリンピックが終わりました。

開催中は、私もテレビの前に釘付けで、日本選手の活躍に一喜一憂していました。

最初は柔道の不振などでメダルも思うように取れず、歯がゆい思いもしましたが、終わってみれば獲得メダル数は金銀銅合わせて38個と、史上最多となりました。

日本の選手の皆さん、 すばらしいパフォーマンス、本当にありがとう!

メダルが取れるかどうかは、選手本人にとっても、私たち国民にとってもオリンピックの最大の関心事にはちがいありません。

オリンピックのような世界大会のとき、私たちはいつもより強く、自国のことを意識するのは自然のことです。

しかし、「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」というオリンピックの精神にもう一度立ち戻って考えてみませんか。

今大会に参加した国・地域は204。48年前の東京オリンピックの倍以上の多さです。

人種や民族、文化・言語や政治体制の違いを超えて、 この地球という星に住む人類の代表が一堂に会し、身体的能力の極限を競うのです。

なんてすばらしいことでしょう。

これこそ、オリンピックの最大の意義ではないでしょうか。

地球上でまだまだ貧困や暴力が人々を苦しめています。

それを乗り越えて、オリンピックの旗の下に地球上のあらゆる地域からアスリートが集う。

このようなオリンピックを開催できる人類の叡智を、私は今、讃えたいと思います。


2012年8月1日水曜日

シニアお見合いパーティー潜伏記

先日、50代シングルの友人Aさんから、「50代限定お見合いパーティー」に行ったときの話を聞きました。

興味のある方もいらっしゃるかと思い、彼女に許可をいただき、このブログに書かせていただくことにしました。


A子さんは54歳、15年前に離婚して以来、女手一つでお子さん二人を育ててきました。

下のお子さんが独立したのを機に、新しい人生を始めようと、意を決して、お見合いパーティーに参加したということです。

*****(A子さん談)


(以下、個人を特定できないように、多少、脚色してあります)


そのお見合いパーティーは、ネットで探しました。

料金は、3000円~5000円。

意外と安いと思ったら、飲み食いなし、だそうです。

でも、かえって、そのほうがよかったです。

飲んだり食べたりしながら、短時間でお話しするのって、難しいですものね。

会場は銀座にあるビルの2階。

集合時間ぴったりに入ったのですが、会場は7割がた埋まっていました。

こういう集まりに参加するのは初めてだったので、もう、心臓バクバクしていました。

入り口では、2,3人の女性スタッフが対応してくれました。

いかがわしい雰囲気はまったくなく、まじめな感じで好感が持てました。

始めに、自分の番号と、紙を渡されました。

一つは、相手に渡す自己紹介の紙、もう一つには自分用で、それに、気に入った人の番号を書き入れ、最後にマッチングをするということです。

会場には、二人がけのテーブルが配置されていて、女性は壁側に座り、男性が席を移動しながら、すべての女性と話をするというシステムです。

女性のほうからすれば、男性が入れ替わり立ち代わりやって来て話をするという感じです。

さて、案内された席に座って見回すと、あれ、隣はなんだか、若そうな女性が二人。

女性同士で話をしてもいいのかしら、と迷いましたが、間が持たないもので、ちょっと、話しかけてみました。

彼女たちは30代半ばで、自分たちはわがままなので、結婚相手は年上の男性が言いかなと思って、参加したということです。

へー、そういう考え方もあるわけですね。

そんな話をしていると、私の前にも男性が座り、いよいよ、始まりです。

まずは、司会の方が、パーティー進行の説明をします。

そして、ひとり10分くらいの時間で、男女ペアで自己紹介をしあいます。

それが終われば、男性は次の席に移動して、また別の相手に同じことを繰り返すわけです。

男女、15名ずつだったので、それを15回、繰り返すわけです。

ものすごく事務的に進行するので、恥ずかしいという気持ちは、まったくなくなってしまいました。

10分という時間は、本当にあっという間で、相当強烈なインパクトがないと、なにも印象に残らない感じです。

私の印象に残った人は二人。

一人は私より年下で、不動産業を営んでいて、年収1000万って、書いてありました。

なかなかハンサムで魅力的な人でしたけど、それだけに、ちょっとあぶなそうな感じもしました。

もう一人は、59歳の男性で、年齢がぎりぎりですね、って笑っていました。

誠実な感じでした。

その人は、もしよかったら、連絡くださいと、自分のメアドを渡してくれました。

なんだか、必死のまなざしでした。

全員が話し終わると、参加者は希望の人の番号を書いた紙をスタッフに渡します。


私は、初めてだったこともあり、どなたの番号も書かずに、出しました。

スタッフは、それを集計して、いよいよマッチングの発表です。


マッチング発表のときは、みんなたぶん、どきどきだったと思います。

私は、誰の番号も書いていなかったので、まるで見学者のような気分で、気楽に聞いていました。

その日は、参加者30名のうち、5組のマッチングが発表されました。

発表は番号なので、だれが呼ばれ、だれが呼ばれなかったのかは、ほかの人にはわかりません。

そして、まず男性が外に出て、マッチングした人だけが、外で女性を待ちます。

その後、女性が外に出て、マッチングした女性だけが、待っている男性のところに行きます。

そのほかの人は、知らん振りして、夜の街にすーと消えていきました。

なるほどね、外れちゃった人も、恥ずかしい思いをしないですむように、ちゃんと配慮されているんですね。

いい体験をしました。

これで、なんだかふっきれたような感じがしました。

これからは、積極的に出会いを求めて、どんどん外へ出て行こうと思えるようになりました。

*********(A子さん談 完)

とまあ、A子さんの話はこんな感じでした。

なかなか貴重なお話でしたが、私は、こういう出会いの場があるって言うことは、とてもいいことだと思いました。

離婚したら、死別したら、あとは寂しい老後が待っているだけ、なんて考えないでいいと思います。

いくつになっても、愛する対象があるということ、愛されているという実感があるということは、人生を豊かに、幸せなものにしてくれると思います。

A子さん、がんばれ!

2012年6月27日水曜日

ゼミは苦行、でも楽しい


始めての方へ:事務局長のusagiは現在、早稲田大学において正規の学部生として政治学を学んでいます。)

毎週、指定された本を読んでレポート2000字を書き、ゼミで発表してみんなで討論する

これが、今私が受けているゼミの内容です。

滅茶苦茶大変ですが、勉強になるし、面白いです。

先生は大変厳しく、もうすでに何人も雷を落とされています。

社会人学生で、ゼミをとらない人は結構多いですよ。ゼミは取らなくても単位さえ足りていれば卒業できますから。

黙って授業を受けているのならいざ知らず、グループワークやディスカッションが頻繁にあるゼミは、世代間格差の大きい社会人の中には、苦痛に思う人も人がいても不思議ではありません。

私の所属するゼミ生は、もちろん、みんな20歳か21歳です。

しかし、ここまで年の差があると、もう、あまり気にならなくなりますね。

みなさん優秀なので、同じ土俵で闘えます。というか、みんな結構勉強しているので、こちらのほうが負けそうです。

よく、書くのが好きで好きで、という人がいますが、私は、そういうタイプではありません。

ですから、レポートに取り掛かるまでは、いやでいやでたまりません。

毎回、なんでこんなゼミを取ってしまったのかと、後悔ばかりしています。

時間もものすごくかかってしまいます。

ところが、半分ほど書いたあたりから、だんだんノッてくるんです。

最後の総括あたりになると、もう夢中でキーを叩いている自分がいます。

ゼミの時間ギリギリまで、学校のPCルームで推敲しているのですが、このときが一番充実しています。

この間は、パソコンルームがいっぱいで、印刷機の前に人が並んでいて、ゼミに間に合わないかと、ひやひやしてしまいました。

ゼミでこれを自分で読み上げて発表するのですが、もう、恥をかくばかりで、その晩は神経が高ぶっていて、なかなか寝付かれないほどです。

ゼミを選ばないで楽に卒業するという選択もあったのですが、今は、やはりゼミを取ってよかったと思っています。

この歳で、なかなかこんな経験、させてもらえませんから。



2012年6月20日水曜日

若々しい日本のシニア

日本の、というか、アジア系のシニアは、男女を問わず海外では本当に若く見られますね。

子供からティーンエイジャーくらいにかけては、西洋人は本当に美しい人が多いです。

目鼻立ちがはっきりしていて、肌は透き通るようです。

アジア人は、そのころはどちらかというと子供っぽくて、あまりぱっとしない。

ところが、20代すぎるころから、逆転現象がはじまります。

日本人の20代、30代は、海外ではティーンエイジャーと間違えられるくらい若くみられます。

私の知り合いの30代の女性が、アメリカではどこへ行っても、お酒を買おうとすると身分証明書の提示を求められ、それを見せても、なかなか信用してもらえないので面倒くさいと、嬉しそうに愚痴っていました。

シニアになると、その差がもっと激しくなるようです。

まさかティーンエイジャーには見られませんが、マイナス10歳は確実でしょう。

前にもブログに書きましたが、馬術の法華津さんにしろ、キャスターの鳥越さんにしろ、日本の70代は、若々しくて魅力的な方が多いです。

世界一の長寿を誇る日本のシニア諸君、

若若しさでも、絶対に、私たちは世界一だと思いますよ。

見た目だけではない、健康の面での若々しさも、もちろん、世界一です。

どんどん海外に出て、日本のシニアの若さをアピールしてください。

(ちょっとほめすぎ?)

2012年6月14日木曜日

20歳と競争しても負けない88歳

テレビ朝日のモーニングバードでGウーマンというコーナーがあります。

「元気」に「頑張る」「グレイト」な女性たちにスポットをあて、みなぎるパワーの秘訣を知る、と言う内容です。

先週は、88歳で現役アスリートという女性が紹介されました。

彼女は、マスターズ陸上で何度も優勝を果たしていて、今でも20代女性と同じくらいの速さで100メートルを駆け抜けるというから、びっくりです。

若いころから陸上選手をやっていたのかと思ったら、大間違い。

走ることをはじめたのは、なんと70歳からだそうです。

それも、自宅を全焼するという不幸に見舞われ、引越し先の地域の運動会で誘われてたまたま走ったのが、きっかけだそうです。

そこで走ることの爽快さに目覚め、練習を始めたということです。

以前にもこのブログで紹介しましたが、80代でマスターズ水泳で優勝したという女性も、水泳は確か、70歳から初めたとおっしゃっていました。

もともと、走る素養はあったんでしょうね。

それでも、70歳で新しい才能を発掘できるなんて、本当にすばらしいです。

希望がわきます。

その前の週では、92歳の現役ピアニストのかたを紹介していたのですが、番組のコメンテーターの方は、90代にくらべたら、80代はまだ若いですよね、と口をそろえておっしゃっていました。

私も、将来が明るく思えてきました。

マスコミの作るイメージと言うのは、強烈なものがあります。

マスコミで介護が注目されるようになってから、高齢者といえば、介護が必要な暗いイメージ一色になってしまいました。

もっとGウーマンのような番組が増えて、シニアのイメージを明るいものに変えていってほしいものです。

でも、マスコミに頼るばかりではいけません。

私たち一人ひとりが、シニアのイメージを変えていく広告塔だと思って、頑張りましょう。

2012年6月9日土曜日

ネットのお作法 (2)

ネットでは、面と向かって言えないことでも、言えてしまう。

これが、ネット社会のすばらしいところでもあり、怖いところでもあります。

すばらしいところは、悩み事相談によく現れているます。

面と向かっていえないような悩みを、自分が特定されずに書き込める。

それに対して、いろんな方から、共感や解決策や、時にはお叱りももらえる。

一方、怖いところは、面と向かっては言えないようなことを、面と向かっては言えないような激しいことばで言えてしまうことです。

言った自分は特定されないから、反撃を食らうこともない。

相手の身体というのは、そこに存在するだけで、無言の威嚇になります。

特に、相手の視線が自分に向けられてときは、よけいプレッシャーがかかります。

ですから、現実社会では、なかなか思ったことを相手に言えなくて、イライラしたりするんです。

しかし、人間関係を円滑にするには、思ったことがなかなか言えないくらいがちょうどいいのです。

ネットの社会で円滑なコミュニケーションをとろうと思ったら、面と向かって言えないようなことは、書かないことが一番だと思います。

掲示板やメールに書き込む前に、これは面と向かって相手に言えるだろうかと、一度、立ち止まって自問自答してみてください。

特に、感情的になっているときは、私は、一晩ねかせてから、次の日に読み返して、それで大丈夫と思ったときだけ、メールを送るようにしています。

言い過ぎたときは、必ず後悔しますが、抑制のきいた文章の場合は、後で読んでも、いやな気分にはなりません。

いろいろ失敗を重ねて、やっとたどり着いた解答が、これです。




2012年6月7日木曜日

ネットのお作法 (1)

以前、主人公がふとしたことで、人の心が透けて見えるという能力を持ってしまうという映画がありました。

周りの人の心の声が聞こえてしまうのです。

にこやかに握手している相手が、心の中では「コイツ、嫌味なやつだな」と言っているのが、主人公には聞こえてしまう。

自宅で妻と二人でテレビを見ていると、「もうこんな暮らしは我慢ならないわ!」という妻の心の声が聞こえてしまうんです。

もうこうなったら、人間関係はめちゃくちゃです。主人公もそのストレスに耐えきれなくなり・・・。

人の心が見えてしまうなんて、超ド級の恐怖映画ですよね。

私は10年以上、コミュニティの運営に携わっていますが、現実ではありえないようなすばらしい出会いに恵まれる一方、ネット特有の問題にも遭遇します。

それが、この、心の中が透けて見えてしまうという問題です。

ネットのお付き合いは、基本的に文字だけのコミュニケーションです。相手の姿も見えません、声も聞こえません。そこには、あきらかに身体性が欠如しています。

暗闇にいる、誰だかわからない人物から、テキストだけが送りつけられてきます。

相手の姿も見えない代わりに、自分の姿も隠されている。

この、身体性の欠如と匿名性というところに、様々な問題が発生してきます。

(続く)


2012年5月18日金曜日

幽閉事件

久しぶりに、大学ネタです。(usagiは社会人学生として現在、早稲田大学で学んでいます。) 


まだ寒かったころの出来事です。

そのゼミは、夜遅くまでやっていることで有名なゼミだった。

ゼミが終わったのが10時半、教室を出ると、守衛さんが鍵を片手に、ゼミ生が退出するのを待っていた。

皆と一緒に階段を下りかけたが、トイレによろうとゼミ生と分かれてひとり、女子トイレに。

そして、いざ建物から出ようとしたら、なんと、建物の出口の扉がしまっているではないか。

ガチャガチャ、とノブを回してみるが、完全に施錠されている。
ヤバイ、と思ったが、出口はもう一つあったことを思い出して、そちらに走ると、ガーン、その扉も施錠されていた。

もしかして、私って、建物の中に一人で閉じ込められた?一瞬、固まってしまった。

でも、もしかして、守衛さんが建物のどこかにまだいるかもしれない。

「だれかー、いませんかー、すみませーん、とじこめられちゃいましたー!」と大声で叫んでみる。

しーんとして、返事なし。

今度は、もう少し大きい声で、叫んでみる。

「すみませーん、だれか、いませんかーッ!!」 

・・・・・ノーリプライ 

 ガーン



私一人、建物の中に閉じ込められてしまったらしいと悟る。よーし、それなら、こんなときでもなければ、決してできないことをやってみようと思い、あらん限りの声を振り絞って、助けてー、HELP!!!

「助けてー」の声は、虚しく虚空に吸い込まれていった。

どうしよう、このまま明日の朝まで出られなかったら、どうしよう。
今は明かりがついているけど、そのうちこれも消えるんだろうか。
ひょっとして、暖房も止められる?
極寒の師走に、一晩ここで、一人で耐えろと?

夕飯も食べていないぞ。
酒でもあれば、床にだって寝てやるが、そんなものがあるはずもない。

凍死したら、どーすんだ!

やっぱり、何としてでもここから出なければ、私にはまだまだ未来があるんだ。

その建物の名前は、「1号館」。
そうです。1号館です。エライのです。
だから、正門のすぐヨコに建っています。

早稲田のキャンパスはしょっちゅう、どこかが工事中で、古い建物が壊され、高層ビルに建て替えられています。(よほどお金があるんだろうなあ)

この1号館は、残り少なくなった、昔のアカデミックな雰囲気を残す素敵な建物です。
しかし今はかえって、報われなかったアカデミズムの亡霊が潜んでいるようで、不気味な感じがします。

四角い建物の真ん中に、庭が見えます。そこに通じる扉を見つけてノブを回してみると、なんと、鍵がかかっていないではありませんか。

これで外に出れると、大喜びで扉を開け、庭に飛び出しました!

ところが、そこは中庭。ヨーロッパに良くあるような、中庭なんです。その中をぐるぐる、ぐるぐる回っていみましたが、建物の外に出る道は、どこにもありませんでした。

usagiは途方にくれ、中庭の四角い夜空を見上げて、ため息をつきました。

まるで、けっして這い上がれない深い井戸に落ちてしまったような、真っ暗な気分です。



とにかく、冷静にならなければと、自分に言い聞かせた。
どうやったら、ここから出られるか、考えるんだ、usagi!

そうだ、こういう時こそ、携帯の出番だ。
誰かに連絡して、守衛さんのところに連絡してもらおう。
しかし、誰に・・・・

そして、突然、思い出したのだ。
ついさっき別れたばかりのゼミ生の一人と、携帯番号を交換したということを。

たまたま、隣に座っていた彼。私が出版編集の仕事をしていたと自己紹介したら、自分も出版に就職したいので、せひお話聞かせてください、ということで、携帯番号を交換していたのだ。

つい、さっきのことである。
あー、usagiはなんて運の強い人間なんだろう。

震える手で、携帯のボタンを押す。
出てくれよ、聞こえてくれよ、おねがいしますよー、と祈るように、彼の声を待つ。
が、何度鳴らしても、応答する気配はない。

きっと、マナーモードなんだよね。
私だって、携帯の呼び出しって、まともに出れたことないもんなああ。

しかし、彼をどうしてもつかまえなくちゃ。
私の命綱だ。

そして、2度、3度、ついに4度目に、
「はい、もしもし」という声を聞くことが出来たのだ。


あー、これで助かった

「どうしました。なにかありました?」

彼の声が、神の声のように聞こえた。

「閉じこめられちゃいましたー、テヘ」

涙声になりそうなのをぐっとこらえて、冗談っぽく言う。

「あー、じゃあー、僕たちまだ学校の近くにいますので、そちらへ向かいますね」

しばらく待っていると、扉の鍵がガチャガチャと開けられ、守衛さんが顔をだした。彼が連絡してくれたらしい。

「すみませーん、私って、バッカみたい。お手数おかけして、スミマセン」
と、泣きそうになったのを悟られないように、笑顔で謝る。

ただでさえ目立ってしまう、シニアの社会人学生である。
こんなドジをやらかしたら、ゼミの笑いもの、守衛室でもいい話のネタになってしてしまったに違いない。

しかし、危機一髪とは、このことだ。
たまたまその日、別れ際にゼミ生と携帯番号を交換していたからすぐに出られたが、そうでなかったらと思うと、ぞっとする。
(完)

とにかく、目立たないように、目立たないようにと思っていても、なぜだか、とても目立ってしまうシニア学生。


今度もまた、やらかしてしまいました!

2012年5月10日木曜日

法華津寛さん、かっこよすぎます!

少し前になりますが、馬場馬術の法華津寛氏が、ロンドン五輪の馬場馬術個人の代表に選ばれたというニュースが飛び込んできました。

なんと、71歳でオリンピック出場です。

テレビで拝見しましたが、かっこよすぎます。

気品があります。

素敵過ぎます。

70歳でも、あんなに男性として素敵でいられるなんて、本当に、すばらしいです。

東京オリンピック初出場のときから、何度も挑戦し、何度も挫折して、しかし決してあきらめない、不屈の精神が、なによりかっこいいです。

北京オリンピックで、実力を発揮できずに予選落ちしたときも、インタビューで、こう答えています。

「私は馬に乗るのをやめたことがない。今後もやめるつもりはない」


同じような言葉は、“ハイチのマザーテレサ”と呼ばれている 84歳日本人女医の須藤昭子さんもおっしゃっていました。

「私は引退するつもりはありません。なぜなら、ここで活動することは、自分が生きることと同じことですから。生きることをやめることはできませんよね。」

先日ブログにも書かせていただいた、ヨットの単独世界一周で植村直己冒険賞を受賞した斉藤実さん(80)の生き方も、お姿も、かっこよかったですよね。

男性としての魅了がありました。

つまり、女性から見て、セクシーってことです。

どうなんでしょう。

かっこいい生き方をしている男性は、セクシーに見えるんでしょうか。

今回も法華津さんは、インタビューに答えて、

「今は、年とってよかったなと思っていますよ。若いときなら、こんなに注目してもらえなかったでしょうから。」

いずれにしろ、世の男性シニアの皆さん、

70歳でも、80歳でも、生き方次第で、女性からセクシーと言ってもらえますから、がんばってくださいね。(^▽^)/

2012年4月25日水曜日

シニア・ナビ誕生秘話 (3)

コミュニティサイトの運営は、本当にエキサイティングでした。

いまでは当たり前になってしまったネットでの交流も、13年前は、まったく違いました。

見ず知らずの人間が空間を一気に飛び越えて出会えることに、メンバーも事務局も、感動していました。

メンバーも初心者ばかりなら、事務局も始めてのことだらけでした。

まさに、走りながら考えるという状態でした。

もちろん、楽しいことばかりではありませんでした。

人間関係のトラブルがいちばん大変でした。

いわゆる誹謗中傷合戦になってしまって、せっかく交流しようと思って入られた方に、いやな思いをさせてしまったこともありました。

コミュニティは雰囲気がとても大事です。

人間はプラスの感情、マイナスの感情、いろんな側面をもって生きていますが、全体の流れがプラスに傾けば、皆さん、プラスの側面を出してきてくださいます。

ささくれ立っていると、皆、マイナスの側面ばかり目立つようになってしまう。

ネット上のトラブルは、往々にして、ネットの「お作法」に不慣れなことからくることが多いです。

ネットでものすごく攻撃的なことを書いておられる方が、お会いしてみると、とても気の弱そうな、優しそうな方だった、なんていうことも、ありました。


基本的なルールとエチケットさえわかっていけば、トラブルに巻き込まれることも、人にいやな思いをさせることも少なくなります。

えらそうに書いていますが、私もコミュニティを運営しながら、メンバーの皆様といっしょに悩み、少しずつ学び、成長してきたと思います。

シニア・ナビがいまのようなアットホームな雰囲気になれたのは、設立当初から活動してくださったメンバーの方々のお力が大きいです。

特に女性メンバー方は、コミュニケーション能力が高く、コミュニティを本当に活き活きとしたものに、血の通ったものにしてくださいました。

もちろん、男性は、女性とは違った活躍をたくさんしてくださいました。

女性がトラブルに巻き込まれそうになったら、スクラムを組んで守ってくれたり、積極的にオフ会を企画してくださったりして、コミュニティをとても楽しいものにしてくださいました。

メンバーも事務局も、痛い目にあいながらも、少しずつ学び、成長してきたように思います。

2012年4月15日日曜日

和菓子作りイベントのレポート

去る4月8日、東京・渋谷でシニア・ナビ和菓子作り体験イベントが開催されました。

ケーキやクッキーなら作ったことのある方もいらっしゃるでしょうが、和菓子となると、なんだか、難しそうでと考えてしまう方も多いのではないでしょうか。

でも、作ってみると、あまりにも簡単なので、拍子抜けしてしまいました。

そして、見栄えもいい。

もちろん、おいしい。

お友達へのプレゼントやお客様のおもてなしにお出しすると、絶対に喜ばれそうです。

まずは、桜餅に挑戦。
 
最初に桜餅の皮の生地を作ります。

うすーく生地を伸ばします。


桜の葉を巻いて・・・

桜餅ができあがりました。簡単、簡単。

次は、うぐいす餅です。

白玉粉をふるいにかけて、水とよーく混ぜます。

電子レンジで少しずつ加熱。
よーく練ります。
とろーりとした生地を黄粉の上にのせ、


ちぎっては丸めて、

のばしながらあんこを包みます。

最後にうぐいす黄粉を振りかけて、


うぐいす餅の出来上がり!

さあ、召し上がれ。

2012年4月7日土曜日

自主企画のオフ会が盛んに

シニア・ナビのオープン当初から、メンバー自主企画のミニオフ会は、たびたび開催されていました。

コミュニティ内のオフ会コーナーには、次々と、ミニオフ会のレポートが寄せられてきました。

最初のミニオフ会の投稿は、2000年11月23日の深川オフ会でした。

レポートによれば、総勢14人。

「富岡八幡様、酉の市、富岡八幡様と、お話をしながら時の経つのを忘れて、もんじゃ焼きを楽しみ・・・聖路加ビルの上から夕日を眺めて、・・・」という内容。

談話室での交流を重ね、少しずつ、少しずつ、信頼をはぐくんできた仲間たちでした。



一度オフ会に出ると、病み付きになります。

「今度のオフ会はいつ?」

オフ会の最後には、必ずこの言葉がでるほど、ハマります。

シニア・ナビには、談話室、日記帳、プロフィール、ギャラリーと、これまでも多様な交流の場がありましたが、やはり、オフ会がいちばん絵になりますね。


写真は、2001年4月の昭和記念公園のオフ会、メンバーの方々の自主企画です。

春の陽気に誘われて、快晴の下、皆でお花見にいってきました。

ちょうど桜は満開、皆さんのウキウキした表情をご覧ください。

とはいえ、写真は個人を特定できないように縮小してあります。

(わかる人にはわかる?)
 

2012年3月24日土曜日

和菓子作りに挑戦しませんか(4月8日実施)


シニア・ナビの体験イベントは、これまでに陶芸教室、AED講習を行ってきました。

和気藹々とした雰囲気で楽しかった、役に立ったと、参加者の皆様からお声をいただいています。

さて、4月は和菓子づくりに挑戦します。




春らしく、桜にちなんだ和菓子「桜餅」と、早春の和菓子といわれる「うぐいす餅」の2品を、講師をまじえて作っていただきます。

「和菓子作り」というと、難しいイメージを持つ方もいらっしゃるかと思いますが、今回は自宅でも簡単に作ることができるものです。

普段お菓子作りをされない方や、まったく料理をされない方でも安心してご参加いただけます。

ベテランだけどシニア・ナビのメンバーと一緒に和菓子が作りたい!という方のご参加も大歓迎です♪

和菓子作りに挑戦しながら、メンバーとの交流を楽しみませんか。

開催は4月8日(日)です。

詳しくは、下記をご覧ください。

http://www.senior-navi.com/monitor/32/index.html

2012年3月17日土曜日

シニア・ナビ誕生秘話 (2)

私たちは小さな会社なので、資金面では、とても大手にはかないません。

大手が参入しないジャンルで、なにかないか。

それに、社会貢献できるような仕事がしたい。

いまでいうソーシャルビジネスのようなものを考えていました。

当時は、50代以上でパソコン、インターネットを利用している割合は非常に少なく、シニア向けサイトも、介護関連がほとんどを占めていた時代でした。

1999年は、介護保険制度が導入される前年で、世間は、「高齢者=介護が必要な人」といった流れになっていました。

高齢化社会が取りざたされ、マイナスイメージばかりが強調されていたのです。

しかし一方で、1999年は、国連で決議された国際高齢者年でもありました。

高齢者の自立、参加、ケア、自己実現、尊厳の実現をモットーに、世界的な取り組みが行われた年でもありました。

社会で活き活きと活躍するシニアの方はたくさんいる。

そうだ、そんなアクティブシニアのためのサイトを作ろう。

それが、シニア・ナビ誕生のきっかけでした。

日本には先例がなかったので、参考にしたのは、アメリカのシニアサイト。

アクティブなシニアが、様々な分野で活躍している様子に、刺激を受けました。

資金もなく、手作りのサイトづくりでしたが、スタートと同時に、多くの方に注目していただき、マスコミでも取り上げていただきました。

コミュニティには、メンバー登録が相次ぎ、談話室や日記、プロフィールやらで、活発な交流が始まりました。

習い始めたばかりのパソコンと格闘しながら、やっと書込みができたことに、おおきな喜びを感じていらっしゃる様子が、事務局にも届いていました。

 ネット上での交流が盛んになるにつれ、パソコンの向こうにいる人は、いったいどんな人たちなんだろう、という興味が、私の中にむくむくと頭をもたげてきました。


⇒「自主企画のオフ会が盛んに」へ

2012年3月12日月曜日

シニア・ナビ誕生秘話 (1)


シニア・ナビは1999年3月に産声を上げました。

おかげさまでこの3月で、13周年を迎えることができました。

「これもひとえに・・・」と、続くところですが、紋切り型の挨拶ほどつまらないものはないでしょう。

今日は、もっと、シニア・ナビ草創期の立ち入ったお話をしましょう。

私は当時、編集プロダクションを主宰していました。

1997年、インターネットの草創期のことでした。

幸運にも、長野オリンにピック関連の仕事で、サイト制作にかかわる機会を得たのです。

ホームタウンホームページというサイトです。

日本各地の情報を取材して、ネットで情報発信するとというものでした。

今でも、下記でごらんいただけます。

http://hometown.infocreate.co.jp/

テキストがあって、写真があってという、まるで雑誌のようなつくりですね。(笑)

デジカメだって、まだ普及していない時代です。

それでも、ネットを通じて世界中に発信できるということだけで、感動しました。

これからは絶対インターネットの時代だと、私はそのとき確信しました。


⇒シニア・ナビ誕生秘話 (2)へ

2012年3月11日日曜日

3.11 あれから1年


あの日、私は都内の繁華街で道を歩いていました。

突然の激しい揺れに、道路の真ん中にしゃがみこんで、しばらくは呆然としていました。

建物からは人々が飛び出してきて、道路の真ん中あたりに集まっていました。


初めて聞くガラガラガラという、建物が揺れる音。

電信柱や遠くのビルがおおきくゆらゆら揺れているのが、ハッキリわかりました。

世界がどうかなってしまいそうな恐ろしさを感じました。

地下鉄の出口から続々と人々が出てくるのを見て、地下鉄が止まったということを知りました。

最寄のJR駅に行って見ましたが、運行休止で外まで人があふれかえっていました。

幸いに、近くのカフェに入れたので、しばらくそこで待っていたのですが、電車はあきらめて、徒歩での帰宅を決めました。

家族へ何度も電話するも、つながらず。

携帯メールは、時間はかかったものの、送受信ができたので、安否の確認がとれたので安心しました。

自宅には3時間かけて歩いて帰りましたが、黙々と避難する群衆の中にあって、その異様さに、疲れも何も感じる余裕はありませんでした。

途中、公民館のようなところでトイレを使わせてもらったとき、ホールのテレビで初めて、地震の詳細について知ることができました。

そしてやっと帰宅したその晩、おそろしい津波の映像にテレビの前に釘付けになったのでした。

あれから1年たちました。

震災で亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

愛する人、家、しごと、すべてを失った被災者の方々の心中を思うと、言葉もありません。

使い慣れたものたちに囲まれて自分らしい暮らしができることが、どれだけ大切なことかを思わずにはいられません。

これだけの自然災害に見舞われる可能性のある日本列島では、原発の安全性が保証されることは決してないということを、私たちはこの大震災で学びました。

豊富な電力によって経済がどんなに発展しようとも、人の命と暮らしが守られなければ、どんな意味があるというのでしょうか。

これから私たちができること、それは、決して忘れないという決意なのではないかと思います。

2012年3月4日日曜日

子供世帯との距離感


usagiの独断と偏見による、クールシニア宣言です。
人の生き方は多様ですから、これから書くことが、すべてに当てはまるとは思っていません。

不快に思われたら、ごめんなさい。
さて最近は、ネットの投稿で、嫁姑不仲の実態が良くわかるようになってきましたね。

多くは、姑側の心無い発言、過干渉にお嫁さんが参っているというもの。

最近では、お嫁さん側も負けてはいません。夫を巻き込んで、「疎遠」という反撃に出ています。

そんな情報がネットで蔓延しているおかげで、結婚前から、姑といえば過干渉と決め付けて、毛嫌いする若い女性も増えているとか。

お姑さん側は、非常識な嫁、自分の息子の家に行くのにアポなし訪問なんか当たり前、悪気があって言ったわけじゃない、気にしすぎ、など、まったく反省の色もありません。

おまけに、お嫁さんに同居を迫り、介護はよろしくね、とお世話になる気まんまんとか。

それが、50代、60代の若い姑のことだというから、びっくりです。本当でしょうか。

もしそれが本当なら、姑世代を代表して(?)、お嫁さん世代に謝りたいくらいです。

クールシニアにとって、そんな姑根性はまったく、かっこ悪すぎます。

クールなシニア女性は、子供が結婚したら、まったく別の家庭と考えます。

趣味や旅行、学習、ボランティアと、
毎日忙しくて、子供家庭のことなんかにかまけている暇はありません。

同居は不幸の始まりです。実の娘家族との同居だって、お断りです。

お嫁さんが嫌がるのと同じくらい、こちらだって、他人と同居なんて、無理です。

お世話してもらえなくっていいんですかって、言わないでくださいね。

介護が必要になったら、専門家に任せますので。

そのために、長年コツコツためた貯金は取っておこうと思っています。

間違っても、二世帯住宅なんていうものに大切な老後の資金を使いたくありません。

嫁姑との関係が悪化しても、逃げようがありませんから。

そのくらいクールな距離をおいてこそ、親世代と子世代、お互い、いい関係を築けるんじゃないでしょうか。

2012年2月25日土曜日

クールシニア宣言

これまで、「シニアの責任」と「高齢者のネガティブイメージをぶっ壊す」というブログで、usagiの考える新しいシニア像についてふれてきました。

繰り返しますが、いまや、3人にひとりが60歳以上の時代です。

そうです、”We are 30%” なんです。
それって、世界一なんですよ。
もっと、誇っていいと思いませんか。

でも、世間は、少子高齢化で日本はお先真っ暗、みたいな言い方ばかりですね。
若者世代の負担ばかり増えると。
そんな風潮をひっくり返してやりたいという思いで、長い間、シニア・ナビを運営してきました。

そこで今回、「クールシニア宣言」というものを提案したいと思います。

クールシニア、つまり、「かっこいいシニア」になるための7つの条件についてお話したいと思います。

 1.自立したシニア
 2.お洒落に気を遣うシニア
 3.社会貢献をするシニア
 4.夫婦の絆を大切にするシニア
 5.新しい出会いを大切にするシニア
 6.自らの努力で医療・介護費の削減に協力するシニア
 7.自由な発想で旅立ちの準備をするシニア
 
シニア世代だけでなく、すべての世代が希望の持てる社会になるよう、できるところから始めて行きましょう。

2012年2月20日月曜日

77歳でヨット単独「最高齢・最多」世界一周を達成

ヨットによる単独世界一周の最高齢を更新した78歳の斉藤実さんに、冒険家に贈られる植村直己冒険賞が贈られたました。

テレビで拝見した斎藤さんは、日焼けしたお顔はつやつやと血色よく、笑顔がとてもチャーミング。派手な柄物のシャツにネイビーブルーのブレザー。胸元にはハンカチーフをのぞかせて、とてもセンスのある、素敵なシニアです。

なにしろ、単独ヨット世界1周ですよ。それも1回や2回ではなく、8回も成功させたんです。

それに、77歳ですよ。

嵐に突入して50メートルにもなる大波にもまれて、もうだめかと思うような時も、何度もあったといいます。

体力、知力、気力があふれていなければ、とてもできないことです。

だって、77歳ですよ。

下手すれば、腰が痛いの、膝が痛いの、物覚えが悪くなっただの、とか言ってません。

それが、命がけの冒険ですよ。雨嵐ですよ。足踏ん張って、ロープと闘うんですよ。それも、一人で!

途中、何度もトラブルに見舞われ、自身も大怪我を負って治療のため何ヶ月も足止めを食らったりしながらも、決して諦めることをせず、3年もかけて8回目の世界1周を成し遂げたんです。

これぞ、「シニアの力」です。どうだ、スゴイダロー!っと、私は世間に自慢したい。

できることなら、「シニア・ナビ賞」なんていうのを作って、お贈りしたい。

それとも、クールシニア賞なんていうのも、いいかもしれません。

私が「クールシニア宣言」をした途端に舞い込んだこんなすばらしいニュースに、心が躍りました。

「常に前向きでいれば何でもできます」という斎藤さんの言葉に励まされたシニアは多いのではないでしょうか。

斎藤さんのような人が出てくると、それに勇気づけられて、いろんなことにチャレンジするシニアが、きっと増えると思います。

こんなシニアが増えれば、世の中、絶対に明るくなります。
シニアだけでなく、すべての世代に勇気を与えてくれます。

ありがとう、斎藤実さん!






シニアの生き方さがし、友達づくりを応援








2012年2月15日水曜日

高齢者のネガティブイメージをぶっ壊す!

今日もテレビで、年金改革についてのニュースをやっています。

もちろん、高齢者を社会全体で支える仕組みづくりは大切ではありますが、将来どれだけ高齢者が増えて、現役世代の負担がどれだけ増すか、そんな話を聞いていると、なんだか、「わたしら数が多くてすみません、世界一の長寿ですみません」っていう気分になってきてしまいます。

 おまけに、そんなニュースのバックに流れる映像が、決まって、杖をついたり手押し車を押したりしている高齢者の姿。

 これでは、社会の高齢者に向けるまなざしが介護一辺倒になるのも無理はないなあと思ってしまいます。

 確かに、介護が社会化され、家族だけに、特にお嫁さんだけに負担がかかるのを防ぐという意味では、社会が介護に注目してくれるのは歓迎すべきことでしょう。

 しかし、ある調査によれば、60歳以上で、日常生活が「まったく不自由な く過ごせる」と回答した人の割合は9割にものぼっています。(平成23年版高齢社会白書)

細かく年代別に見ていく必要もあるでしょうが、 全く介護なしで最後まで自立している高齢者もかなりいるはずです。

何事も多面的に見る必要があります。

高齢者といえば介護、介護といわれる世の中で、私は、シニアの持つすばらしい能力のほうに注目したいと思います。

独断と偏見 を恐れずに、usagiの考えるクールシニアなるものについて、しばらく書いていきたいと思います。



【参考】
平成23年版高齢社会白書
http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2011/zenbun/html/s1-2-3-02.html





シニアの生き方さがし、友達づくりを応援



2012年2月2日木曜日

シニアの責任

今の日本、65歳以上の人口割合がもうすぐ4人に一人になるということは、みなさんよくご存知だと思います。

昨年私も還暦を迎えたので、先日、ふと思い立って60歳以上の人口割合を調べたのですが、これがなんと、驚きの30%!

これって、10年後や20年後の数字ではないですよ。2011年5月現在の数字です。(WHOのデータより)

ドイツやスウェーデンを抜いて、ダントツの世界第1位です。

これって、三人集まればそのうちの一人が60歳以上ということですよね。

これって、シニア世代の果たす役割が、日本にとってどんだけ重要かっていうことですよね。

私たちシニアの果たすべき責任って、いったいなんでしょう。

まず第一は、現役世代の足を引っ張らないということではないでしょうか。

それには、できる限り体力・健康の維持に努め、医療費・介護費の抑制に協力することが大事です。

これは、上からの医療費・介護費削減とはまったく違います。必要な人には、できるだけ手厚い医療と介護を保障することは、福祉国家としてけっして譲れないところです。

そうではなくて、下からの自主的な医療費・介護費抑制が必要だと思うのです。

つまり、ウォーキングやジョギングをしたりジムに通ったりして、体力の衰えを防いで、介護人口を減らそうということです。

病院や介護を迂回して、墓に直行、がいちばん、国の財政危機を救うことになります。

これって、立派な社会貢献だと思いませんか。

自分の体にいいことを、しかも楽しいことをしながら、社会貢献できるんです!

エクササイズをしていると、身体だけでなく、気持ちも上向きになります。

usagiは昨日も、ジムで思いっきり、ズンバを踊ってきました。

これはラテンやレゲエのリズムに合わせて踊るエクササイズですが、「馬鹿騒ぎ」という意味があるそうで、インストラクターさんの掛け声に合わせて、みんなで大声を上げたりして、メッチャ、楽しいんです。

照明なんかもちょっと暗めにしてあって、なんだか、ディスコ(死語?)で踊っているような気分になります。

大好きなリッキーマーティンの曲なんかがかかると、もう、ノリノリでゴキゲンになって、笑顔がサクレツです!

それで40分も踊ると、汗びっしょりになるんですから、たまりません。

話はそれますが、先日、ネットで自宅エクササイズ用のCDを探していたら、「シニアもノリノリの曲が満載」なんていうインストラクター向けのCDがあることを知りました。

いやー、見透かされていて、ちょっと恥ずかしいですが、確かに、昼間のスタジオプログラムなんて出ると、リンダちゃんの曲なんかを使っていて、悔しいけど、楽しいです。

おっと、だいぶ話が横道にそれてしまいましたが、要は、そんなに楽しいのに、社会貢献になっている、というお話でした!

2012年1月11日水曜日

尊厳死協会に加入

新年早々、また「死」について書くのは、ちょっと躊躇しましたが、あえて、新年だからこそ、考えてみたいと思い、この話題を取り上げることにしました。

というのも、年末に、ふとしたことから、日本尊厳死協会のパンフレットを見る機会があったからです。それは、私の母宛のものでした。以前から、母が日本尊厳死協会に入っていることは知っていましたが、私もそのうち、と思っているうちに、雑事にまぎれて、うやむやになってしまっていました。

死は避けられないものではありますが、できるだけ苦しまないで向こうの世界に行きたいと思うのは、皆さん、同じかもしれませんね。でも、急速な医学の進歩のお陰で、かえって、苦しみが長引かされてしまうことも現実に多く見られます。

私は弱虫ですから、できるだけ楽をして、あちら側に行きたいと常に思っています。生き延びる希望がない病に倒れたら、もう、麻酔でもなんでもバンバン打ってもらって、夢見心地のまま、ふらふらと三途の川を渡りたいです。そこで溺れ死んだってかまいません。食べられなくなったら、点滴や胃ろうなどは拒否して、自然に死を迎えたいです。

尊厳死協会の趣旨は、

    ○ 不治かつ末期になった場合、無意味な延命措置を拒否する
    ○ 苦痛を和らげる措置は最大限に実施してほしい
    ○ 回復不能な遷延性意識障害(持続的植物状態)に陥った
     場合は生命維持措置をとりやめてほしい

というものです。
入会すると会員証が発行されます。年会費は2千円ですから、負担にはなりませんね。

60歳になって初めて迎えるお正月。尊厳死協会への加入は、私にとって、自分の人生を人任せにしないで、最後まで自分の意思で決定しようという決意の証となるでしょう。