半島にあるいくつもの入り江には、 残されている家はほとんどなく、わずかに鉄筋の建物だけが、外壁だけ残して無残な姿をさらしていまいした。
写真の建物は2階建てでしたが、土台からなぎ倒されたように横倒しになったままに放置されていました。
ある入り江には、昭和8年3月3日昭和三陸地震のときの津波記念碑がありました。ここまで津波が来た、これより下には住まうな、といった内容のことが書いてあるのが、どうにか読めました。テレビで、そういう石碑があることは知っていましたが、実際にこの眼で見ることがでるとは思ってもいませんでした。
そのすぐ近くに小学校の建物がありました。中は、津波で流されて、なにも残っていませんでした。子供たちの安否が心配になり、ネットで調べましたら、当時、住民の助言により高台に避難して、児童・職員は全員無事だったということでした。 ほっとしました。
多くの犠牲者を出した石巻市釜谷地区の大川小学校にも行きました。
校舎の前には石碑が建てられていて、ひまわりをはじめたくさんの花々が供えられていました。私たちも、ここで黙祷。
たくさんの人が訪れていて、石碑の前で頭をたれていました。大型バスで訪れるグループもありました。
ニュースで聞いていたように、すぐ後ろは、登ろうと思えば低学年でも登れたかもしれないような小高い山林になっていました。
大人たちが安全に生き延びる道を必死で考えた結果とは言え、ここを登ってさえいたらと思うと残念でたまりませんでした。
私たちは、そのまま北上して、南三陸町の防災対策庁舎に向かいました。ここでは、町役場の職員が最後まで残り、住民避難のために奔走されていました。津波は屋上まで達し、非常階段と鉄塔につかまった僅かな職員を残し、多くの職員が津波にさらわれてしまいました。
防災無線で住民に避難を呼び掛け続けた遠藤未希さんもその一人です。
この日も、多くの人が訪れ、むき出しの鉄骨だけになった庁舎に向かって、黙祷をささげていました。「防災対策庁舎」という文字と、それを裏切るような無残な鉄骨との対比が、あまりにも悲しすぎて、私は言葉もなく立ちすくんでいました。
南三陸町の地元商店街と町が共同で、再び幸せを取り戻すための企画として、「福興市」を開催しています。
私たちは、ちょうどその開催日にうかがうことができました。遠方からも多くの方々が来ていて、これからは、こういう形での支援が息長く続くことが大切なんだと思い知らされました。
私たちも、店主の津波体験のお話を聞きながら、海鮮丼やうに丼に舌鼓を打ち、名産のわかめなどを購入しました。
ここでは、「語り部プロジェクト」として、津波の被災者が自らの体験を語り継ぐ運動を行っています。震災前に観光協会で地域ガイドをしていた方々が中心となって、活動しています。
幸いにも私たちは今回、語り部の方々のお話を聞く機会に恵まれ、津波の生々しい体験を直に聞くことができました。皆さん、涙をこらえながら語ってくださいましたが、語ることで、だんだんと気持ちの整理もついてきているとおっしゃっていました。
今回、手探りで被災地をめぐってきましたが、やはり、現地に行かなくてはできなような貴重な体験をさせてもらいました。
直に見る、聞く、体験することで、被災地の現実の一端ではありますが、自分の中で強く印象付けられた気がします。
被災直後は多くの若い方々が、被災地の過酷な状況の中に飛び込み、 ボランティア活動をしてきました。
今は被災地も落ち着きを取り戻し、交通機関や宿泊施設も普段どおり利用できるようになりました。 被災地の支援は、これから5年、10年と長いスパンで考えていく必要があります。
これからが、私たちシニアの出番かもしれないと、そんなことを思いながら、帰路に着きました。
(終)