2011年11月27日日曜日

60代半ばから描き始めてユネスコ世界記録遺産登録へ

狭い炭鉱の坑道に寝そべるようにしてつるはしを振るう褌一丁の男、その後ろに、これも腰巻一枚の女が、掘り出された石炭をかき出している。

山本作兵衛さんの描いた炭鉱絵が、今年5月に、日本で始めて、ユネスコの世界記録遺産として登録されました。

その独特な炭鉱絵は画集として出版されて話題にもなっていたので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。

先日、NHKの番組「日曜美術館」で、作兵衛さんが炭鉱絵を描いたいきさつを知り、深い感動を覚えました。

作兵衛さんは7歳のときから父とヤマ(炭鉱)に入り、以来50年余り、筑豊で炭鉱夫として生きてきました。

閉鎖された炭鉱の宿直警備員として働いていた60代半ばに、子や孫に炭鉱のことを語り継ぎたいという一心で、炭鉱絵を描き始めました。

92歳でお亡くなりになるまでに2000枚あまりを描いたということです。

60代なかばから新しいことを始めて、その後の30年間でユネスコに登録されるほどの人類の偉業をなしとげたことに、私はとても勇気付けられました。

さらに驚いたことには、絵で記録するという方法にたどり着くまでに、紆余曲折があったということです。

60歳のころ、彼は文字で炭鉱の記録を残そうとして、2000枚近くの原稿を書き上げたそうです。しかし、ヤマに入る人にはさまざまな事情があり、それは公にされるべきではないという忠告のもと、その原稿を廃棄せざるを得なかったということです。

普通なら、ここで記録を残すことを断念するのではないでしょうか。それが、60代半ばにもなって、まったく違った、絵という手法によって、記録を残すという作業を成し遂げようと決意したわけです。しかも、絵を学んだことはないという。

番組でも言っていましたが、彼には、「描く理由」が明確にあったということです。だからこそ、ぶれない。

伊能忠敬は、商売で財をなした後、50歳で江戸に上り、測量を学んで、55歳から17年をかけて全国を測量しました。人生50年といわれた時代に、50歳から新しいことに取り組んだのです。

こうしてみると、シニアになってから、まったく新しいことに挑戦していくことに、大きな希望が見いだされませんか。