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2012年9月3日月曜日

2012年夏 大震災1年半後の東北へ(最終回)

三日目、8月26日は、宿泊した牡鹿半島から南三陸町へ向かいました。
半島にあるいくつもの入り江には、 残されている家はほとんどなく、わずかに鉄筋の建物だけが、外壁だけ残して無残な姿をさらしていまいした。
写真の建物は2階建てでしたが、土台からなぎ倒されたように横倒しになったままに放置されていました。


ある入り江には、昭和8年3月3日昭和三陸地震のときの津波記念碑がありました。ここまで津波が来た、これより下には住まうな、といった内容のことが書いてあるのが、どうにか読めました。テレビで、そういう石碑があることは知っていましたが、実際にこの眼で見ることがでるとは思ってもいませんでした。

 
そのすぐ近くに小学校の建物がありました。中は、津波で流されて、なにも残っていませんでした。子供たちの安否が心配になり、ネットで調べましたら、当時、住民の助言により高台に避難して、児童・職員は全員無事だったということでした。 ほっとしました。
 瓦礫集積場に、一輪のひまわりが、鮮やかな黄色い花を咲かせていました。まるで、元気を出して、と言っているようです。



 多くの犠牲者を出した石巻市釜谷地区の大川小学校にも行きました。
校舎の前には石碑が建てられていて、ひまわりをはじめたくさんの花々が供えられていました。私たちも、ここで黙祷。
たくさんの人が訪れていて、石碑の前で頭をたれていました。大型バスで訪れるグループもありました。

 ニュースで聞いていたように、すぐ後ろは、登ろうと思えば低学年でも登れたかもしれないような小高い山林になっていました。
大人たちが安全に生き延びる道を必死で考えた結果とは言え、ここを登ってさえいたらと思うと残念でたまりませんでした。

 私たちは、そのまま北上して、南三陸町の防災対策庁舎に向かいました。ここでは、町役場の職員が最後まで残り、住民避難のために奔走されていました。津波は屋上まで達し、非常階段と鉄塔につかまった僅かな職員を残し、多くの職員が津波にさらわれてしまいました。
防災無線で住民に避難を呼び掛け続けた遠藤未希さんもその一人です。


 この日も、多くの人が訪れ、むき出しの鉄骨だけになった庁舎に向かって、黙祷をささげていました。「防災対策庁舎」という文字と、それを裏切るような無残な鉄骨との対比が、あまりにも悲しすぎて、私は言葉もなく立ちすくんでいました。

 南三陸町は、甚大な被害の中、それでも力強い復興の槌音を響かせています。
南三陸町の地元商店街と町が共同で、再び幸せを取り戻すための企画として、「福興市」を開催しています。
私たちは、ちょうどその開催日にうかがうことができました。遠方からも多くの方々が来ていて、これからは、こういう形での支援が息長く続くことが大切なんだと思い知らされました。
私たちも、店主の津波体験のお話を聞きながら、海鮮丼やうに丼に舌鼓を打ち、名産のわかめなどを購入しました。



ここでは、「語り部プロジェクト」として、津波の被災者が自らの体験を語り継ぐ運動を行っています。震災前に観光協会で地域ガイドをしていた方々が中心となって、活動しています。
幸いにも私たちは今回、語り部の方々のお話を聞く機会に恵まれ、津波の生々しい体験を直に聞くことができました。皆さん、涙をこらえながら語ってくださいましたが、語ることで、だんだんと気持ちの整理もついてきているとおっしゃっていました。


今回、手探りで被災地をめぐってきましたが、やはり、現地に行かなくてはできなような貴重な体験をさせてもらいました。
直に見る、聞く、体験することで、被災地の現実の一端ではありますが、自分の中で強く印象付けられた気がします。

被災直後は多くの若い方々が、被災地の過酷な状況の中に飛び込み、 ボランティア活動をしてきました。

今は被災地も落ち着きを取り戻し、交通機関や宿泊施設も普段どおり利用できるようになりました。 被災地の支援は、これから5年、10年と長いスパンで考えていく必要があります。

これからが、私たちシニアの出番かもしれないと、そんなことを思いながら、帰路に着きました。

(終)



2012年9月2日日曜日

2012年夏 大震災1年半後の東北へ(4)


 二日目、8月25日は、石巻へ。

駅前の市街地は道路も建物も、きれいに復旧していて、津波があったこが 嘘のように整備されていました。
しかし、「津波浸水深ここまで」と書かれた標識が立てられていて、腰のあたりまで津波が来たことがわかります。
3.11の津波の被害を決して忘れたてはならないと、この標識は語っているようです。


近くには、「ふれあい商店街」という仮設の商店街ができていて、津波被害にあった商店の皆さんが頑張っていました。



 海に向かって車を走らせていくと、まだ壊れたままの家屋もありました。



沿岸部が見渡せるというので、私たちは日和山という小高い丘に上がりました。見渡す限り青々とした夏草に覆われている荒地に、私たちは言葉もなく立ちすくんでしまいました。


北上川河口近くの中洲には、無残にも津波で片足をもぎ取られた「自由の女神像」が立っています。この像は地元の企業が建てたものらしいですが、なんとも不思議な感じがしました。

近くには、石巻出身の漫画化、石ノ森章太郎さんの記念館があり、私たちが訪れたときには、復旧作業中でした。どれだけ貴重な作品が流されてしまったことでしょう。

海岸近くの石巻市立病院です。 いまだヘドロの強烈なにおいがあり、薬局も水に漬かったままです。

中州には津波で流されクシャクシャになった自動車の残骸 が積み上げられていました。車内に取り残されたまま流された方もたくさんいらしたことを思い、そっと手を合わせました。



 (続く)




2012年8月31日金曜日

2012年夏 大震災1年半後の東北へ(3)

8月24日 東北の旅、一日目の午後は、宮城県亘理町の「ふるさと復興商店街」に伺いました。


 



 仮設住宅内は、昼下がりとあって、人っ子一人歩いていませんでした。商店にも人影はなく、営業しているのか、ちょっと心配になりましたが、コロッケ家さんを見つけて、中に入らせてもらいました。


ちょうどお昼をいただいたばかりだったので、コロッケひとつだけ、買って食べましたが、揚げたてで、とてもおいしかったです。

ここでも、コロッケ家の奥さんに、いろいろとお話を伺いました。

お店は海岸近くにあり、すべて津波にさらわれてしまったこと。仮設で商店街をつくるから、やってみないかと言われて、お店を始めたこと。
店が仮設の人たちの集会場みたいになって、 住民の皆様に喜ばれたこと。芸能人やお相撲さんも来てくれて、うれしかったことなど、気さくに話してくださいました。

夕方になると、仕事から帰った人たちで、店も活気を取り戻すそうです。
お話を伺っているときも、学校帰りの高校生らしいお客さんがあったりして、普段の暮らしが少しずつ取り戻されている様子が伺えました。

それでも、この仮設住宅で暮らす方々が、住む家や大切な人をなくし、悲しみにじっと耐えていることを思うと、厳粛な気持ちにさせられました。

2012年8月29日水曜日

2012年夏 大震災1年半後の東北へ(2)

8月24日 第1日目。

海岸沿いの壊滅的な状態にショックを受けましたが、気を取り直して、また走り始めました。

お昼は、国道沿いの地元の小さな食堂に入りました。

そこで、食堂の女将さんや地元の方に、いろいろと震災当時のお話を伺うことができました。

(食堂の女将さんのお話)

この食堂まで津波は押し寄せてきたが、幸い、浸水くらいですんだ。自分たちは地震が来てすぐに逃げたが、姉夫婦が津波に持っていかれてしまった。

(男性のお客さんのお話)

自分の家は海岸から600メートルのところにあった。
新築して10年しかたっていなかったが、根こそぎ、津波に持っていかれた。
自分たちはすぐに逃げて助かったが、一切合財、なくしてしまった。
しかし、自分が保険屋をやっていることもあって、地震・津波保険に入っていたので、二重ローンにならずに済んだ。
震災後は地震・津波保険に入る人が増えた。自分は元自衛官なので、震災後はボランティアで駆け回った。
津波のときは、ちょうど地区のお年寄りの集まりの世話をやっていたので、自宅で7,8人の年寄りがお茶していた。
地震の直後、自分は皆をワゴン車に乗せて、逃げた。あとで、お年寄りからは、命の恩人だと言われた。


他のお客さんたちも、みな地元の人らしく、気軽に、いろいろと津波のことを話してくださいました。一人ひとりに、語るべきドラマがあるということが、ほんのちょっとお話しただけでもわかりました。

もっとゆっくり、お話を伺えれば、もっと、いろいろと聞かせていただけたと思うのですが、ここであまり時間を使うわけにも行かず、残念でした。

皆さんから、この地域に仮設住宅の商店街があることを伺ったので、午後は、そこへ行ってみることにしました。

出かける前には、旅程の大体の目安はつけてきたのですが、とは言っても、なんのつてもなく、どこを訪れたらいいのかわからないまま、出発しました。

こうやって、現地の方とお話をすると、いろろとおしえてくださるので、とても助かりました。




余談ですが、カーナビって、本当に便利ですね。今回、初めて自分で運転しながら使ってみましたが、極度の方向音痴の私でも、カーナビさえあれば、日本中、どこへでも行けそうな気がします。

「そこを右です。」なんてカーナビに言われて、そのたびに従順に「はい」と返事をしていた私でした。

ベテランドライバーの同伴者は、カーナビの指示を無視して、勘で走っていましたが、私にはとてもそんな大それたことはできません。


(続く)





2012年8月28日火曜日

2012年夏 大震災1年半後の東北へ(1)

8月24日から26日まで、仙台を中心とした東北の被災地に行ってきました。

被災地の現実をこの眼で見ておきたいと思っていましたが、被災された方々にご迷惑じゃないか、不謹慎じゃないかという思いもあり、 ずっと躊躇していました。

しかし、現地の方が、実際の被害の様子を直に見て感じ取ってくださいとおっしゃっているのを聞いて、その声に背中を押されるようにして、行ってきました。

同世代の社会人学生の女性と二人で、仙台からレンタカー借りて周りましたが、同行者がいなければひとりでもと思っていたので、彼女が一緒に来てくれて、本当に心強かったです。

大津波から1年半たった、被災地の様子をご報告します。

1日目は昼前に仙台駅に到着。レンタカーを借りて、海岸沿いを相馬市に向けて南下しました。


 国道の海岸側は、雑草の茂った野原にところどころ住宅の土台が残っているだけで、見渡す限り、建物らしい姿は見られません。


建物が津波に持っていかれ、土台だけが残っている家がほとんどです。

瓦礫がきれいに取り払われ,、まるで新築の家が建つのを待っているようです。この土台の上で、泣いたり笑ったり、普通の暮らしが、当たり前のように営まれていたことを思うと、胸が詰まります。


被災したまま、取り壊されずに無残な姿をさらしている建物も残っていました。

防砂の松林も、被災前は向こうが見えないほどみっしり群生しいたのが、ほとんど津波にさらわれて、今はまばらにしか残っていません。

(続く)

2012年8月13日月曜日

人類の叡智

ロンドンオリンピックが終わりました。

開催中は、私もテレビの前に釘付けで、日本選手の活躍に一喜一憂していました。

最初は柔道の不振などでメダルも思うように取れず、歯がゆい思いもしましたが、終わってみれば獲得メダル数は金銀銅合わせて38個と、史上最多となりました。

日本の選手の皆さん、 すばらしいパフォーマンス、本当にありがとう!

メダルが取れるかどうかは、選手本人にとっても、私たち国民にとってもオリンピックの最大の関心事にはちがいありません。

オリンピックのような世界大会のとき、私たちはいつもより強く、自国のことを意識するのは自然のことです。

しかし、「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」というオリンピックの精神にもう一度立ち戻って考えてみませんか。

今大会に参加した国・地域は204。48年前の東京オリンピックの倍以上の多さです。

人種や民族、文化・言語や政治体制の違いを超えて、 この地球という星に住む人類の代表が一堂に会し、身体的能力の極限を競うのです。

なんてすばらしいことでしょう。

これこそ、オリンピックの最大の意義ではないでしょうか。

地球上でまだまだ貧困や暴力が人々を苦しめています。

それを乗り越えて、オリンピックの旗の下に地球上のあらゆる地域からアスリートが集う。

このようなオリンピックを開催できる人類の叡智を、私は今、讃えたいと思います。


2011年12月12日月曜日

「死」について

フランスの哲学者ジャンケレヴィッチの『死』という500ページにも及ぶ大著を読みました。「読んだ」というより、社会人学生としてusagiが通っている大学の授業で、「読まされた」といったほうがいいかもしれませんね。

私たちはシニアですから、「死」について、よく考えますよね。長生きしてぽっくり死にたいというのが、大方の希望でしょう。この『死』という本は、もちろん、楽な死に方について書かれているわけではありません。

「死」とは何か、哲学的に考察しているわけです。小さな文字でびっしり、500ページもですよ。頭がくらくらしてしまいます。

これまでの賢人や哲学者が死についてどう語ったかということから始まって、宗教における死とか、いろいろ書いてあります。しかし結局、著者は「死は無である」と結論付けます。あの世というものはない、と言うのです。

人は死ねば、「無」になってしまうのかと思うと、とても虚しい感じがします。自分が「無」になるなんて、恐ろしいことです。どうやって、受け容れればいいのでしょう。

著者はしかし、最後に、希望を見せてくれます。人間は死んだら、その肉体も精神も無に帰してしまいますが、「私」という人間が確かに存在したという事実は、決して無にはならない、と言うのです。

そう言われれば、そうですよね。存在したということは、決してチャラにはならない。私を知っている人がすべて死んでしまったあとでも、「私」という人間が存在したという事実は、消せない。

死のことを考えることは、生のことを考えることだと、著者は言います。死があるからこそ、生きていると言える。死がないものは、生きてはいないのと同じこと。死があるからこそ、生が輝くのです。

冬枯れを目前にして、紅葉が一瞬燃え上がるように鮮やかな輝きを見せるように、私も自分の生を輝かせることが出来るでしょうか。

2011年8月31日水曜日

中国・上海江南地方のツアー

先日、中国・上海江南地方に1週間ほどパックツアーで行ってきました。

前々から中国には一度は行かなくちゃと思っていたのですが、いつものとおり個人手配でと思うと、なかなか踏み出せないでいました。

今回のツアー、飛行機代にもならないような超激安のツアーです。友人に話すと、口々に「大丈夫?」「埋められちゃわない?」「みやげ物店、つれまわされるよ」といった、ツレナイ反応。

大手の旅行代理店だし、新聞にでかでかと広告載せてるし、大丈夫だとは思うけれど、・・・でも、なんとなく不安になって、 ネットで激安ツアーのからくりを調べてみました。

ネットってすごいですね。どんな疑問にも答えてくれます。激安ツアーは、なぜそんな安い料金で出来るのかが、わかりました。

簡単に言えば、日本の旅行代理店は現地のツアー会社に丸投げして、現地のツアー会社は土産物屋からのマージンとオプショナルツアーの利益で赤字を補填しているということです。

大量の日本人観光客が安定的に供給されるので、通年を通すとそれでも十分にやっていけるのだそうです。

それに、ものによりますが、物価が日本の十分の一以下とも言われる中国だからこそできる価格設定なんでしょうね。

このようなからくりを知った上で、どうやったら、賢く超激安ツアーを使えるかが、今回の旅の目的のひとつでした。

もうひとつは、というか、こちらのほうが主な目的なんですが、ツアーの隙間時間で、現代中国の現実にちょっぴりでも触れることです。

結論からいいますと、「大満足」のツアーでした。
 
行きの飛行機は、夕方出発でホテル着が24時。帰りの飛行機は早朝発で、往復で2日がとられることに。 でも、7泊8日のツアーなので、正味6日は観光に使えます。私にとってはこれで十分です。

旅行で大事なのが、ホテルですよね。広告には、「当社デラックスホテルに宿泊」と書いてあります。
しかし、この値段で、デラックスホテルはないだろう、ま、清潔ならどんなホテルでも我慢しよう、と思っていたのですが、 これが、びっくり!

7泊とも、本当に、デラックスホテルなんです。東京で言えば、1泊2万はするだろうと思われるような広々とした部屋で、ロビーも大理石やシャンデリアが燦然と輝く豪華さ。多少、サービスがよくなかったり、シャワーの使い勝手がよくなかったりはしましたが、こんなのはご愛嬌です。ロケーションも町の中心部からは離れていたりして、よくはなかったですが、バスで移動するので、問題ありません。もう、大満足のホテルでした。

観光は、1日に2箇所程度。時間もわりとゆったり組まれていて、ガイドさんの説明も よかったです。水郷の町を船にのったり散策したり、景色も、思ったよりよかったですね。

問題のおみやげ物や周りですが、1日に2箇所、絹製品、お酒、淡水真珠、マットレス?、印鑑など、いかにもシニア好みのものばかり。
皆さん、強制されたわけでもないのに、「自主的に」結構よくお買い物なさっていらっしゃったのには、びっくりでした。真珠クリームなぞ、女性全員がまとめ買いしていました。まあ、ショッピングは旅行の楽しみの一つですからね。

なにしろ、この売り上げでツアー代金を補填しているのですから、usagiとしては、当然と思ってショッピングにお付き合いしました。といっても、店内を冷やかしてまわっただけですが。usagiのツアー代金は、言ってみれば、ほかの方に出していただいたようなものでした。

ツアーにオプショナルツアーは付き物ですね。初日に、ガイドさんから、弊社はこのオプショナルツアーで成り立っているのでご参加よろしくと、やんわりとプレッシャーをかけられましたが、正直なかんじで、悪くなかったです。

さすがにusagiも、少しはガイドさんに協力しなくちゃと思い、民族舞踊のショーにお付き合いしました。内容は、なかなか幻想的でよかったですよ。

オプショナルツアーが一人平均1万だとすると合計で○万、土産物屋のバックマージンが○万、〆て○万の売り上げで・・・・ああ、これなら利益が出るなあ、なんて、バスに乗っている間、考えていたら疲れちゃって、なんで私がツアー会社の経営の心配をしなくちゃならないんだと思い直し、それからは、少しは外の景色に集中するようにしました。

さて、肝心の現代中国ですが、やはり、実際の中国を見てまわれて、よかったです。今回は上海周辺の沿岸地方中心だったので、 行く先々で、中国の豊かさに驚かされました。高速道路の周辺には高層マンションが延々と立ち並び、農村地帯もヨーロッパのようで、家も大きく(大家族のせいでしょうか、土地がひろいからでしょうか)、豊かさを実感しました。

一方、言われているように、格差も実感しました。高層ビルの立ち並ぶ上海の町の中心部にも、 バラックのような家々が密集している地帯があって、豊かさに取り残されたような庶民の暮らしがありました。しかし、usagiは、そんな人々の昔ながらの暮らしが、とてもいとおしく感じられます。

地元の人が行く果物やさんで50円ほどで買った巨峰のおいしかったこと、どんな土産物よりいい買い物をしたと思っています。

パックツアーは、旗を持ったガイドさんのあとをぞろぞろ着いて行くのが恥ずかしいですが、それに慣れてしまうと、気楽でいいですね。海外の個人旅行だと、緊張の連続で、ま、それなりの発見もあって、楽しいのですが、気づかれします。それぞれの長所短所を理解して、上手に利用したいですね。

今度は、個人旅行でゆっくり中国を訪れてみたいものです。

2011年8月14日日曜日

男の日傘

34度5分。
これが、昨日の我が家の最高気温でした。節電のため、日中は扇風機だけで我慢してきましたが、いよいよ、エアコンのスイッチに手をつけてしまいました。

室内ではノーメイクでアセをタラタラたらしていてもかまいませんが、外出となると、そうもいきません。紫外線対策のメイクをばっちりして、長袖、手袋、そして、日傘はかかせません。

この日傘、一昔前は中年オバサンの象徴みたいでしたが、最近は、大学でも女子学生が日傘を指している姿をよく見かけるようになりました。 いい傾向です。若いときから紫外線対策をしていれば、年とってからでも美肌を保つことができることでしょう。

日傘をさすと、体感温度は2度も違うそうですね。私は、夏は日傘なしでは、もう外を歩けません。

ところで、最近は男性の日傘もよく売れているそうです。確かに、 デパートなどでは、紳士小物のコーナーなどに、男性用日傘が飾られていて、あまり売れすぎて、品薄状態だそうです。

男性だって、日傘をさせば、ずいぶん外歩きが楽になるのに、と、私は常日頃から考えていましたから、これは大歓迎でした。

しかし、見ないんですよね。街で日傘をさしている男性に。あんなに売れているというのに・・・。

たぶん、勇気を出して買ったはいいけど、自分ひとりが日傘をさして歩くという言うのには、やはり躊躇してしまうんでしょうね。

雨なら、男性だって堂々と傘をさしますよね。それが、同じ傘なのに、日傘というとさせなくなってしまうのは、たぶん、日傘は女性がさすものという意識が根強いからなんでしょうね。涼しいからといって、男性がスカートをはくわけにはいかないのと同じです。

性による差異は、社会や体や心の隅々まで 支配しています。これを打ち破るのは、並大抵のことではできません。

確かに、女性の男性化は、この100年でずいぶんと進みました。女性がズボンをはくようになったのが、いい例かもしれません。しかし、男性の女性化は、それと比べると、少ない。それは、男性優位社会がもたらしたもので、女性の男性化は、より上のほうへ向かう意識があるのにくらべて、男性の女性化は、より下の地位に降りるという意識が働くからだという説がありますが、どうなんでしょうね。

私が社会人学生として通っている大学のキャンパスを見る限り、 男子学生のおしゃれ度は100%です。女性と比べても見劣りしないくらい、みなさん、おしゃれに気を使っています。服装、髪型、靴・・・もう、ギャル男ばかりです。

ところが、化粧、そして、日傘だけは、いまだに、している人は皆無です。

化粧は別にして、日傘は、ぜひ、愛用してほしいですね。直射日光をさえぎり、涼しい上に、高齢者になると増えてくるシミの防止にも役立ちます。薄毛予防にも効果があるそうですよ。

男性の皆さん、今日、いっせいに日傘(黒の雨傘で結構)をさして、堂々と街をあるきませんか。

みんなでやれば、怖くない、です。






2011年7月20日水曜日

あきらめないこと

なでしこジャパンが、サッカーの女子ワールドカップ決勝戦で最強のアメリカチームに逆転勝ちをし、念願の金メダルを獲得した。

このすばらしい瞬間を、幸いにもライブで観ることができた。普段はサッカーにはあまり興味のないusagiだが、このときばかりは、早朝のテレビの前で 歓声をあげた。

ニュース解説で、日本チームを勝利に導いたのが、女子ワールドカップに4回も出場した澤穂希選手だということを知ったときは、にわかには信じられなかった。だって、4年に一回の開催でしょう、ということは、16年も出場していたの?! っていうことは、澤選手って、30過ぎてる!

澤選手のことを知りたいと思って、いろいろネットのニュースを読んでいると、スポーツジャーナリストの吉井妙子さんの記事が目に留まった。そして、とても感動的な言葉を見つけたので、ここで紹介させていただこうと思う。

澤選手は
「出来ないことっていっぱいあるじゃないですか。でも、私は出来ないことをそのままにしておかないんですよ。ミスしたり失点したりすると、その試合のビデ オを見ながらなぜ失点したのかを分析し、出来ないことは出来るようになるまで練習するんです。でも、そんな考えは小さい頃から持っていた」

澤選手は12歳から日本代表の先輩達と一緒に練習させられた。しかし、実力差は歴然としていた。
「それが私には凄く悔しかったんです。お姉さん達は日本代表だから、なんて関係ない。お姉さん達が出来るのに、なぜ私に出来ないのかって、毎日隠れて泣いていました。だから一人で壁に向かってキック、ドリブル、シュートなどを、納得がいくまで居残り練習をしていました」

普通、出来ないことって、あきらめませんか。それが、澤選手は、「出来ないことは出来るようになるまで練習する」という。

普通、あの人には出来たって、自分なんかには、出来ないって、思いません?それが、澤選手は、「なぜ私に出来ないのか」って、納得がいくまで練習するといいう。

この「普通」じゃない強い意志の力があったからこそ、今回の金メダルがあるんですね。

「そんな強い意志なんて、とてもじゃないけど、私にはない」って思いません?
そう思っている限り、人生で何事もなしえないということがわかりました。

競技って、人生そのものですね。

【参考サイト】

「あらたにす」

http://allatanys.jp/index.html